はじめに
2025年3月、福岡県の病院で昇圧薬「ノルアドレナリン」を希釈せずに投与する誤りがあり、90代の女性患者が投薬後に死亡するという事故が起こりました。この薬は敗血症性ショックや急性低血圧の治療に欠かせない一方で、微量でも強力な作用を持つため本来は希釈して慎重に投与する必要があります。ここでは事件の概要と問題点を整理し、医学の観点から背景を解説するとともに、医療安全の観点から再発防止策を考えます。
事件の概要と問題点
- 誤投与の経緯:女性患者は腸の疾患で入院中、血圧が低下したため主治医がノルアドレナリン投与を指示しました。本来は注射用アンプル(2 mg/2 mL)を生理食塩水250 mLに希釈して16 µg/mL程度の濃度で持続点滴を行います。ところが看護師が原液をそのまま投与してしまい、適正量の約17倍に相当する濃度となっていました。投与直後に血圧や脈拍が急上昇し、その後は落ち着いたものの、約4時間半後に患者は敗血症性ショックで死亡しました。
- 医療者間のコミュニケーション不足:投薬時の希釈指示が口頭で伝達されており、指示内容の理解に齟齬が生じたことが根本的な原因でした。緊急時でも口頭指示を避け、記録に残る形でオーダーすることが重要です。
- ダブルチェック体制の不備:高リスク薬剤では二人以上で処方・調剤・投与の内容を確認する「ダブルチェック」が必須ですが、本件では機能しませんでした。人間は必ずミスを起こすため、システムとしてエラーを検出する仕組みが必要です。
- 因果関係の評価:病院は死亡の主因を敗血症性ショックとして誤投与との因果関係を否定しました。ノルアドレナリンは一過性の急激な血圧上昇を引き起こし、過量投与による脳出血や致死的不整脈が報告されています。今回の症例ではそのような合併症は認められませんでしたが、誤投与が患者の全身状態にストレスを与えた可能性は残ります。第三者機関による詳細な検証が必要でした。
ノルアドレナリンとは
ノルアドレナリン(一般名:ノルエピネフリン)は、交感神経を刺激して血管を収縮させる強力な昇圧薬です。急性低血圧や敗血症性ショックに対し、輸液のみでは血圧が保てない場合に第一選択薬として使用されます。成人ではアンプル2 mg/2 mLを生食250 mLに希釈し、16 µg/mLの濃度で持続点滴します。適正な用量は患者の体重や血圧目標に応じて2〜80 µg/分ほどで、通常は電動シリンジポンプで徐々に調整します。
過量投与の危険性
ノルアドレナリンは「高警戒薬(ハイアラート薬)」に分類されており、誤った使用により重大な危害が生じるリスクが高い薬剤です。米国医療用薬安全機構(ISMP)のハイアラート薬リストには、アドレナリン受容体作動薬(エピネフリン、フェニレフリン、ノルアドレナリン)が含まれていますismp.org。過量投与では重篤な頭痛、急性の高血圧危機、末梢血管抵抗の増大による心拍出量低下が起こり、放置すれば臓器虚血や不整脈、心停止に至ることがありますncbi.nlm.nih.gov。そのため通常は希釈後にシリンジポンプを用い、投与速度の設定とバイタルサインのモニタリングを徹底します。
敗血症性ショックと高齢者の危険性
敗血症は感染症による全身性炎症反応で、重症化すると臓器障害と血圧低下を来してショック状態に陥ります。高齢者では免疫機能や臓器予備能が低下しているため、敗血症に陥りやすく、死亡率も高くなります。重症敗血症や敗血症性ショックの死亡率は若年者で30〜40%、高齢者では50〜60%とされ、若年者に比べ1.3〜1.5倍高いと報告されていますpmc.ncbi.nlm.nih.gov。下図は年齢層別に推定される敗血症性ショックの死亡率を示したものです。

このように、高齢者では敗血症からの回復が難しくなるため、適切な初期治療と予防が重要です。本件の患者も基礎疾患で敗血症性ショックに至っており、誤投与がなくても死亡した可能性は高かったと考えられます。しかし、投薬ミスが患者の全身状態に追加の負荷を与えたかもしれない点は無視できません。
誤投与の背景にあるシステム要因
医療事故調査・支援センターが2022年にまとめた報告では、薬剤の誤投与による死亡事例36件のうち35件が確認不足に起因していました。工程別に見ると、処方時の間違いが17例、調剤時の間違いが2例、投与時の間違いが16例でした。

処方があっていても、調剤があっていても投与時に間違えることも多い。
同機構は再発防止策として以下を提言していますmedsafe.or.jp。
- チェックの明確化:処方から投与までの各工程で「妥当性チェック(薬剤適応の確認)」と「照合型チェック(薬剤名や患者情報の照合)」を行う。
- マニュアル整備:忙しい状況でも実行できる具体的な手順を定め、職員が従えるようにする。
- 薬剤情報の活用:不慣れな薬剤を使用する際には十分な情報を事前に確認し、専門部署と相談する。
- 配置薬の管理:部署に置く薬剤は薬剤部門と医療安全管理部門が協議し、保管や補充の手順を標準化する。
- 過量投与後の対応:高リスク薬を過量投与した場合、症状がなくても直ちに監視を開始し、薬物中毒相談窓口や専門医に相談する。
今回の福岡県の事故でも、希釈せずに大量投与するという基本的なエラーが起きており、ダブルチェックや口頭指示の禁止といった基本的な安全策の重要性が浮き彫りになりました。
医療安全の社会的意義
医療は高度化・多様化している一方、人間が関与する限りヒューマンエラーは避けられません。重要なのは、誰か一人のミスに依存するのではなく、システムとしてミスを検出・修正できる仕組みを構築することです。具体的には以下のような取り組みが求められます。
- 口頭指示の原則禁止と記録化:電子カルテや処方オーダリングシステムを用いて、投薬指示を記録し、看護師が必ず確認できるようにする。
- ダブルチェックの徹底:高警戒薬を扱う際は、処方・調剤・投与の各段階で複数の医療者が互いに確認し合う体制を整える。
- 研修と教育:薬剤ごとの特性やハイアラート薬のリスクを定期的に教育し、若手だけでなくベテランも学び続ける文化を醸成する。
- 事故報告と透明性:院内のインシデントを隠さず共有し、第三者機関への報告を通じて再発防止策を社会全体で検討する。報告件数が多いほどシステム改善につながります。
- 患者・家族とのコミュニケーション:医療者だけでなく患者や家族も治療内容を理解し、疑問点を確認できるようにすることで、誤薬の防止に繋がります。
おわりに
福岡県のノルアドレナリン誤投与事件は、高リスク薬の取り扱いの難しさと、医療システムの脆弱性を示しました。適正な希釈と投与管理を怠れば、強力な薬剤が患者の生命を脅かします。薬理学的には、ノルアドレナリンがいかに強力な昇圧薬であるか、高齢者の敗血症の予後が厳しいかを理解することが大切です。一方、医療安全の面では、口頭指示の禁止やダブルチェックなど基本的な対策を徹底し、エラーを検出・是正する仕組みを整える必要があります。今回の事故が再発防止策の徹底につながり、今後同様の悲劇を防ぐきっかけになることを願います。
参考文献
- Noradrenaline (Norepinephrine) Intravenous Infusion for Adults – Medinfo Galway. ノルアドレナリンを希釈して投与する手順と濃度が記載されている。
- 医療事故調査・支援センター『薬剤の誤投与に係る死亡事例の分析』(2022年)。36件の死亡事例分析と再発防止策をまとめた報告medsafe.or.jp。
- Nasa P, Juneja D, Singh O. Severe sepsis and septic shock in the elderly: an overview. World Journal of Critical Care Medicine 2012;1(1):23–30. 高齢者の敗血症性ショックの死亡率が50〜60%で、若年者より1.3〜1.5倍高いことを報告pmc.ncbi.nlm.nih.gov。
- Smith MD, Maani CV. Norepinephrine. StatPearls [Internet]. 2024年更新。ノルアドレナリンの作用機序と過量投与時の症状、ハイアラート薬としての注意事項を詳述ncbi.nlm.nih.gov。
- Institute for Safe Medication Practices. ISMP List of High-Alert Medications in Acute Care Settings (2018). 高リスク薬の一覧にアドレナリン作動薬が含まれているismp.org。