筋トレ後の乳酸が脳に効く?

「筋トレで乳酸をためると脳が活性化して、仕事や勉強がはかどる」——SNSでも書籍でもよく見かける話です。乳酸が脳の燃料であることも、遺伝子のスイッチを押す信号であることも、事実です。ただ、そこから「だから筋トレのあとは頭が冴える」まで一直線につながるかというと、話はもう少し込み入っています。2025年に出たヒトでの試験は、むしろ慎重な読み方を求める結果でした。何がわかっていて、何がまだわかっていないのかを、原著と国の資料に当たって整理します。

SECTION 01
結論——先に3つだけ

1
乳酸は疲労のカスではなく、脳がすすんで使う燃料であり、信号でもある

安静時の脳はブドウ糖を主に使いますが、運動して血液中の乳酸が増えると、脳は乳酸を取り込んで燃やします。取り込む量は血液中の濃度にほぼ比例します。さらに乳酸は、受容体を介して血管を増やしたり、タンパク質に結合して遺伝子の読まれ方を変えたりもします。ここまでは、しっかりした裏づけがあります。

2
ただし「乳酸をたくさん出したほうが頭が冴える」は、ヒトのデータでは支持されていない

2025年に発表された、30本のメタ解析(383研究・約1万8千人)を統合した解析では、運動直後に認知機能はわずかに上がっていました。しかしその伸びの大きさは、運動の強度・種類・時間のどれによっても変わっていませんでした。乳酸をたくさん出すほど効く、という用量反応の関係は、いまのところ人間では見えていません。

3
期待するなら「今日の1回」ではなく「続けた数か月」。それでも確実とは言えない

1回の筋トレで得られる冴えは、大きさでいえば「集団平均でわずかに良い」程度で、続くのも30分ほどです。長期の効果は動物では説得力がありますが、2026年に報告された高齢者90人の質の高い試験では、24週続けても対照群との差はつきませんでした。国が筋トレを週2〜3日すすめている理由も、認知機能ではなく生活機能と死亡リスクの側にあります。

SECTION 02
そもそも乳酸とは何なのか

糖を分解していくとピルビン酸ができます。酸素の供給が需要に追いつかないとき、あるいは糖を分解する速度が一気に上がったとき、ピルビン酸は乳酸に変えられます。ここで大事なのは、乳酸が行き止まりではないことです。

つくられた乳酸は、その場にたまり続けるわけではありません。すぐに細胞の外へ運び出され、血液に乗って、乳酸を使いたい別の場所へ運ばれます。速筋でつくられた乳酸を遅筋が使う。脚でつくられた乳酸を心臓や肝臓が使う。この受け渡しは「乳酸シャトル」と呼ばれ、いまでは運動生理学の基本的な考え方になっています。

図1 乳酸がもつ3つの顔① 燃料として運動でつくられた乳酸は血液に乗って脳へ運ばれ、ブドウ糖の代わりに燃やされる。脳は乳酸を捨てていない。② 信号としてHCAR1(乳酸を受け取る受容体)などを介して、血管を増やす・神経のつながりを変える方向のスイッチを押す。③ エピゲノムの材料としてヒストンなどのタンパク質に結びつき(乳酸化=ラクチル化)、どの遺伝子を読むかを一時的に書き換える。※「疲労物質」という古い説明は、いまの生理学では使われていない。

図1:乳酸は燃料であり、信号であり、遺伝子の読まれ方を変える材料でもある。

「乳酸=疲労物質」「乳酸が筋肉痛の原因」はもう使われていない

この2つは、いまの生理学の教科書には出てきません。理由は単純で、時間が合わないからです。運動でたまった血中乳酸は、運動をやめれば30分から1時間ほどでほぼ元の値に戻ります。一方、いわゆる筋肉痛(遅発性筋痛)が強くなるのは翌日から翌々日です。乳酸がとっくに消えたあとにやってくる痛みを、乳酸のせいにはできません。

運動中のきつさや灼けるような感覚には、乳酸そのものではなく、同時に発生する水素イオンや無機リン酸、カリウムの動き、神経側の要因などが複雑にかかわっています。乳酸はむしろ、その場面で「燃料として持ち出される側」です。

「乳酸アシドーシス」とは別の話です。敗血症や重い心不全、一部の薬の副作用などで、酸素が全身に行き渡らなくなると血中乳酸が高くなります。この場合の高乳酸値は、重症度を示す危険なサインです。ただしそれは「乳酸が悪さをしている」というより、「体のどこかで酸素が足りていない」ことの表れです。運動でつくられる乳酸とは、置かれている文脈がまったく違います。運動で乳酸が上がることを心配する必要はありません。

SECTION 03
脳は本当に乳酸を食べているのか

「脳はブドウ糖しか使えない」と習った方も多いと思います。これは半分正しく、半分は古い理解です。

脳が何を使っているかは、脳に入る血(動脈)と脳から出る血(頸静脈)を同時に採って、その差を見ればわかります。この方法で調べると、安静時の脳は確かにほぼブドウ糖だけで動いています。ところが運動して血液中の乳酸が増えると、脳は乳酸を取り込みはじめます。しかも取り込む量は、動脈血の乳酸濃度に比例して増えていきます。

図2 運動中、脳は何を燃やしているか脳代謝比(CMR)= 酸素の取り込み ÷(ブドウ糖+乳酸の半分)。小さいほど「ブドウ糖以外も使っている」ことを意味する。安静時約 6激しい運動中2 を下回る0246脳が取り込む乳酸の量は、動脈血の乳酸濃度にほぼ比例して増える。「筋肉でたくさんつくれば脳にも届く」こと自体は、ヒトで確かめられている。

図2:脳代謝比(CMR)は、酸素の取り込み量を「ブドウ糖+乳酸の半分」で割った値。安静時のおよそ6から、激しい運動中には2を下回るところまで落ちます。

脳代謝比が下がるということは、取り込んだ燃料の量に対して酸素の消費が追いついていない、つまり脳がその場で燃やしきる以上の量の糖と乳酸を取り込んでいることを意味します。さらに、高強度の運動中には脳全体のブドウ糖の取り込みがむしろ減ることも報告されています。乳酸が肩代わりしている、と考えると筋が通ります。

脳の中でも同じことが起きています。神経細胞を取り巻くアストロサイトという細胞が糖を分解して乳酸をつくり、それを神経細胞に渡す。この受け渡しを担うのがMCT(モノカルボン酸トランスポーター)という運び屋で、これを止めると動物では長期記憶が定着しなくなることがわかっています。

SECTION 04
燃料であるだけでなく、信号でもある

もし乳酸が「代わりの燃料」というだけなら、話はここで終わりです。注目を集めているのは、乳酸が同時に「合図」としてはたらくからです。

1
受容体を介して血管を増やす

脳には HCAR1(GPR81)という、乳酸を受け取るための受容体があります。マウスに高強度インターバル運動をさせるか、乳酸を注射するかを7週間続けると、脳の血管新生因子(VEGF)が増えて毛細血管が増えました。この受容体を持たないマウスでは、同じことが起きませんでした。

2
BDNF(脳由来神経栄養因子)を増やす経路をたどる

マウスで、乳酸の運び屋であるMCT1/2をふさぐと、運動しても海馬のBDNFが増えなくなりました。逆に、運動させずに乳酸を繰り返し注射するだけで、30日後には海馬のBDNFが増え、学習と記憶が改善しました。SIRT1という酵素を介した経路が関与していると報告されています。

3
遺伝子の読まれ方そのものを変える(乳酸化)

2019年に、乳酸がヒストンというタンパク質に直接くっついて、遺伝子の読まれ方を変えることが報告されました。「乳酸化(ラクチル化)」と呼ばれるこの現象は、代謝の状態がそのまま遺伝子のスイッチに翻訳されるしくみとして、いま非常に活発に研究されています。

ここまでの話には、大きな注意書きがつきます。この節で挙げた3つは、いずれも動物か培養細胞での知見です。マウスの海馬を取り出して測ることはできますが、生きている人間の脳でBDNFの量を測ることはできません。だからヒトの研究では、血液中のBDNFを「脳のBDNFの代わり」として測ってきました。次の節は、その代用が本当に成り立つのかを問い直した研究の話です。

SECTION 05
ヒトで確かめたら、話が慎重になった

2025年、スウェーデンのグループが、きれいな設計の実験を報告しました。運動という要素をまるごと取り除いて、乳酸だけを静脈から点滴するという方法です。健康な18人(半数が女性)に、乳酸ナトリウムを1時間かけて点滴し、血液中の乳酸を5.9 mmol/Lまで上げました。中強度から高強度の運動で到達する程度の濃度です。生理食塩水を点滴する日と比較する、クロスオーバー試験でした。

図3 乳酸だけを点滴したら、BDNFはどうなったか健康な18人・運動なし・1時間の乳酸点滴(血中ピーク 5.9 mmol/L)/Röja ら 2025血液中の pro-BDNF(前駆体)上がった +55〜68%点滴の終了15分後から上がりはじめ、そのあと2時間ずっと高いままだった。血液・血清の mBDNF(成熟型)動かなかった脳の可塑性に直接はたらくのはこちら。生理食塩水を入れた日と差がつかなかった。筋肉の中の pro-BDNF動かなかった筋肉内の乳酸は29%増えたのに、筋肉のBDNFは増えなかった。

図3:乳酸だけを入れたとき、BDNFの前駆体は上がったが、実際にはたらく成熟型は動かなかった。

BDNFには、切断される前の前駆体(pro-BDNF)と、切断されたあとの成熟型(mBDNF)があります。神経細胞の生存やシナプスの強化にはたらくのは成熟型のほうです。この試験では、前駆体は55〜68%も増えたのに、成熟型はまったく動きませんでした。筋肉の中のBDNFも変わりませんでした。

同じグループはもう一つ、より直接的な研究を報告しています。運動をしてもらいながら、脳に入る血と脳から出る血を採って比べたのです。結果は、運動の強度を変えても、脳から成熟型BDNFが出ていく様子は捉えられなかったというものでした。運動後に血液中のBDNFが増えるのは、骨格筋から出たぶんと、血小板が刺激されて放出したぶんで説明がつきそうだ、という結論です。

研究者自身の言葉が、いちばん正確です。この論文の著者らは、運動直後に血液中のBDNFが増えることを、脳での新しい合成や脳へのよい変化の証拠として読むのは行き過ぎだと明記しています。同時に彼らは、長い目で見れば高強度のトレーニングは乳酸を介して脳のBDNF合成にかかわる重要なしくみだと考える、とも書いています。否定しているのは「1回の運動の直後に血が示す数字を、脳の長期的な変化に読み替えること」であって、運動そのものの価値ではありません。

SECTION 06
では、あの「頭が冴える感じ」は何なのか

実験室の数字がどうであれ、運動のあとに気分がよくなり、集中しやすくなる感覚は多くの人が経験します。これは気のせいではありません。ただ、その正体はBDNFよりも手前にありそうです。

運動をすると、アドレナリンやノルアドレナリンが増え、心拍と体温が上がり、前頭前野の血流が増えます。要するに覚醒の水準が上がるのです。覚醒が上がると、注意を向ける・余計なものを抑える、といったはたらきが一時的にやりやすくなります。乳酸は、この覚醒に必要な燃料を脳に届けている側の役者だと考えると、実感と研究のあいだの距離が縮まります。

実際、脳の乳酸の出入りと実行機能を同時に測った研究があります。健康な男性14人に高強度インターバル運動を2回行ってもらい、脳への乳酸の取り込みとストループ課題の成績を調べたところ、脳が乳酸をよく取り込んでいる人ほど、実行機能の改善が大きいという関係が見られました。しかも2回目の運動では改善が薄れ、そのとき脳が取り込める乳酸も減っていました。

ただしこれは相関であって、因果ではありません。「脳が乳酸をよく取り込む人は、そもそも運動の負荷がしっかりかかっていて、覚醒も血流もよく上がっている」という説明でも、同じ結果が出ます。乳酸が原因なのか、乳酸が結果なのか、この研究デザインでは区別できません。

SECTION 07
数字が食い違って見える理由

「運動は頭にいい」という研究の効果の大きさは、論文によってかなり違います。同じ物差し(効果量)に揃えて並べると、その差がよく見えます。

図4 「効いた」の大きさは、研究によってこれだけ違う共通のものさし(効果量)で並べたもの。0.2=小さい/0.5=中くらい、が目安。1回の運動と認知機能(30本のメタ解析を統合)SMD 0.33383研究・18,347人/Chang ら 2025筋トレ直後 vs 何もしない(12研究)SMD 0.56健康な成人/Wilke ら 20191回の運動と認知機能(若年成人・出版バイアス補正)g 0.13113研究・4,390人/Garrett ら 202424週間の筋トレ vs 対照群(高齢者)SMD 0.13(有意差なし)90人のRCT/AGUEDA試験 2026※対象も比較相手も測り方も違う。数字の大小を、そのまま優劣として読むことはできない。

図4:どれも「運動と認知機能」の研究ですが、比較の相手も対象者も違うため、数字を並べただけでは比べられません。

この食い違いは、次の5つに分解できます。

1
比べている相手が違う

「筋トレ vs 何もしない」なら差はつきやすくなります。同じ研究でも「筋トレ vs 有酸素運動」で比べると、筋トレが優れているとは言えなくなりました。何と比べたかで、答えは変わります。

2
対象になっている人が違う

もともと成績が高い若い人では、伸びしろが小さくなります(天井効果)。逆に認知機能が落ちかけている人では、差がつきやすくなります。

3
測っている中身が違う

同じ統合解析の中でも、注意が0.37、実行機能が0.36、記憶が0.23、情報処理速度が0.20と、領域によって効果の大きさが違います。「認知機能が上がった」という一言に、これだけの幅が隠れています。

4
出版バイアスを補正したかどうか

効果がなかった研究は発表されにくい、という偏りがあります。これを統計的に補正した解析では、若年成人での効果量が0.13まで下がりました。補正しない数字だけを見ると、実態より大きく見えます。

5
メタ解析どうしでも、中身の研究が重なっている

「30本のメタ解析を統合した」といっても、それぞれのメタ解析は同じ元研究を含んでいます。数を積み上げても、独立した証拠が積み上がるとは限りません。

この節でいちばん重要な事実。30本のメタ解析を統合した2025年の解析では、運動の強度・種類・時間、対象者の年齢と認知状態のいずれも、効果の大きさを左右していませんでした。もし「乳酸が多いほど脳に効く」のなら、高強度の運動ほど効果が大きく出るはずです。そうなっていない、というのがヒトのデータの現状です。1回の運動で頭が冴えることには、乳酸以外の説明——覚醒、血流、気分——のほうが素直に当てはまります。

SECTION 08
効くとしたら、いつ、どれくらい

もう一つ、実用上たいせつなのが時間の問題です。「筋トレのあとに勉強する」という使い方をするなら、いつ机に向かうべきかが気になります。

図5 運動後、頭が冴えるのはいつか複数のメタ解析が示している、おおよその時間の見取り図。運動している最中(開始〜15分ごろ)むしろ下がることがある課題の正確さが落ちるという報告が多い。動きながら考える作業には向かない。終わった直後(0〜10分)ばらつく息が上がったままの時間帯。上がる人もいれば、変わらない人もいる。11〜20分後いちばん上がりやすい複数のメタ解析が、この時間帯でもっとも効果が大きいと報告している。20分より後薄れていく効果は消えていく。半日ずっと続くという証拠は、いまのところ乏しい。

図5:運動の最中はむしろ落ちることがあり、いちばん上がりやすいのは終了から11〜20分後。20分を過ぎると薄れていきます。

意外に思われるかもしれませんが、運動している最中は、認知機能がむしろ落ちることがあります。とくに開始から15分ほどの、体が適応しきっていない時間帯に、課題の正確さが下がるという報告が多くあります。「歩きながら考えると閃く」という体験はあると思いますが、それは軽い運動のときの話で、息が上がる強度では逆になります。

効果が最も出やすいのは、複数の統合解析が一致して、運動終了から11〜20分後です。そして20分を過ぎると薄れていきます。つまり実用的には、「トレーニングを終えて、シャワーを浴びて、机に向かうまで」がちょうど良い間合いということになります。半日にわたって集中力が高まる、という話ではありません。

効果の大きさも、正直に見ておきましょう。効果量0.33というのは、集団の平均で見て「わずかに良い」水準です。テストの点数が跳ね上がるようなものではなく、個人差の中に埋もれる程度の差です。「運動したから今日は特別にはかどるはず」と期待しすぎると、思ったほどでなかったときに運動そのものが嫌になります。おまけ程度に考えておくくらいが、続けるにはちょうどいいと思います。

SECTION 09
では、続けたらどうなるのか

1回の効果が小さいなら、続けたときはどうか。ここは期待の持てる話と、冷や水を浴びせる話が両方あります。

期待の持てるほう

高齢者を対象に筋トレの効果をまとめた2025年の統合解析では、全般的な認知機能が0.40、作業記憶が0.44、空間記憶が0.63と、はっきりした改善が出ています。一方で、処理速度・実行機能・注意については有意な差が出ませんでした。効くところと効かないところがある、という結果です。運動の種類を比較したネットワークメタ解析では、筋トレが最も大きな効果を示したという報告もあります。

血液中のBDNFについても、4週間以上の運動を調べた35のランダム化比較試験をまとめた解析で、安静時のBDNFが上がることが示されています。しかも筋トレ(0.76)は有酸素運動(0.48)より大きな効果でした。

冷や水を浴びせるほう

2026年、認知機能が正常な65〜80歳の90人を、筋トレ群と対照群にくじ引きで分け、24週間追いかけた試験の結果が報告されました。週180分の指導つきトレーニングという、かなりしっかりした介入です。

図6 高齢者90人・24週間の筋トレ試験(AGUEDA)が示したこと認知機能が正常な65〜80歳を、筋トレ群と対照群にくじ引きで分けた試験。筋トレ群の「開始前 → 24週後」の伸び0.39群の中だけで比べた数字対照群と比べたときの差(主要評価項目)0.13(p=0.37)統計的な差はつかなかった注意・抑制のはたらきだけを見たときの差0.43この項目だけは差がついた対照群も同じくらい伸びていた。同じ検査を2回受ければ慣れて点数が上がる(練習効果)ので、「群の中で良くなった」は効果の証明にならない。

図6:筋トレ群は確かに伸びました。しかし対照群も同じくらい伸びたため、主要な評価項目では差がつきませんでした。

筋トレ群は開始前より0.39ぶん成績が上がりました。ここだけ切り取れば「筋トレで認知機能が上がった」という見出しになります。しかし対照群も同じくらい上がっていたため、両群の差は0.13で、統計的には差がありませんでした(p=0.37)。同じ検査を2回受ければ、慣れによって点数は上がります(練習効果)。対照群を置く意味は、まさにこれを差し引くためにあります。

ただし、注意と抑制のはたらきに絞ると0.43の差がつきました。年齢が高い人、教育年数が短い人、もの忘れの自覚がある人ほど効果が大きい傾向も見られています。「誰にでも効く」のではなく「弱っている人にこそ効く」可能性を示す結果です。

統合解析とこの試験が食い違って見える理由。統合解析には、対照群を置かない研究や、規模の小さい研究、認知機能がすでに低下している人を対象にした研究が混ざっています。この試験は認知機能が正常な人だけを対象にし、対照群を置き、評価者に群を伏せました。設計が厳しくなるほど効果は小さく出る——これは運動研究に限らず、医学研究全般で繰り返し見られるパターンです。

SECTION 10
病気の脳では、どうなのか

ここまでは健康な人の話でした。アルツハイマー病の脳ではブドウ糖の使い方が落ちることがわかっているので、「なら乳酸を代わりに使えないか」という発想は自然です。

2025年に、その考えを直接試した試験が報告されました。認知機能が正常な高齢者24人と、認知機能が低下している12人に、安定同位体で標識した乳酸を点滴し、代謝の速さと認知機能、血液のバイオマーカーを測ったものです。

結果は2つに分かれます。一つ目は明確です。乳酸を代謝する速さは、認知機能が低下している人でも健常者と変わりませんでした(p=0.988)。アルツハイマー病でブドウ糖の代謝が落ちても、乳酸を使う能力は保たれている、ということになります。これは重要な発見です。

二つ目は、点滴のあとに全般的な認知機能が改善し、アルツハイマー病の血液マーカーが軒並み下がったという結果です。pTau217が33.8%、GFAPが39.7%、NfLが19.5%の低下でした。

この二つ目は、まだそのまま受け取れません。この試験には対照群がありません(単群試験)。全員が乳酸の点滴を受けています。すると、(1)同じ認知検査を2回受けたことによる練習効果、(2)これらの血液マーカーがもともと1日の中で変動すること、(3)点滴で血液が薄まったこと——どれもが同じ結果を生み出せてしまいます。著者ら自身、これらは探索的な解析であると位置づけています。「乳酸の点滴でアルツハイマー病のマーカーが下がる」と読むのは、現時点では早すぎます。

乳酸化は、良い方にも悪い方にも働く

もう一つ、話を単純にできない事情があります。SECTION 04で触れた乳酸化(ラクチル化)が、脳のなかでは正反対の役割を持ちうることです。

図7 乳酸化(ラクチル化)は、良い方にも悪い方にも働くいずれも動物・細胞での知見。ヒトで確かめられた段階ではない。悪いほうに働く場合ミクログリアで H4K12 の乳酸化が進むアルツハイマー病のモデルで、炎症を起こす側の状態が固定され、乳酸がさらに増える悪循環をつくることが報告されている。良いほうに働く場合運動由来の乳酸で H3 の乳酸化が進む同じミクログリアが修復寄りの状態に切り替わり、炎症が減って認知機能が改善したという報告もある。※「乳酸が増えれば脳によい」と一方向に読むことはできない、というのが現時点の理解。

図7:同じ乳酸化でも、どの細胞のどの部位で起きるかによって、意味が逆になります。

アルツハイマー病のモデルでは、脳の免疫細胞であるミクログリアで特定の部位の乳酸化が進むと、炎症を起こす状態が固定され、糖の分解がさらに進んで乳酸が増える——という悪循環が回ることが報告されています。一方で、運動でつくられた乳酸が別の部位の乳酸化を進めると、同じミクログリアが修復寄りの状態に切り替わり、炎症が減って認知機能が改善したという報告もあります。

「乳酸が増えれば脳に良い」と一方向に読むことはできない、というのが現時点の理解です。乳酸サプリメントを飲めばいい、という話にはなりません。いま人間で確かめられているのは、あくまで「運動をする」という入り口のほうです。

SECTION 11
国はどう言っているのか

ここで、公的な資料が何を推奨しているかを確認しておきます。研究の話と、国が国民に向けて出している推奨とは、性質が違うからです。

図8 国が示している運動の目安と、いまの日本の現状厚生労働省「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」(成人向け)ほか。筋力トレーニング週2〜3日成人にも高齢者にも推奨。自重(腕立て伏せ・スクワット)でもよい。3メッツ以上の身体活動週23メッツ・時以上歩行以上の強さで1日60分以上(1日およそ8,000歩以上に相当)。息が弾み汗をかく程度の運動週60分以上週4メッツ・時以上。筋トレをこの枠に含めてもよい。運動習慣のある人の割合(現状)34.6%令和6年 国民健康・栄養調査。健康日本21(第三次)の目標は40%。※このガイドは「認知機能のため」ではなく、生活機能の維持と、病気・死亡リスクの軽減を理由に出されている。

図8:厚生労働省「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」の成人向け推奨と、直近の実態。

厚生労働省は2023年11月の検討会を経て、10年ぶりの改訂となる「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」を策定しました。ここで初めて、成人にも高齢者にも「筋力トレーニングを週2〜3日」が明記されました。マシンを使うウエイトトレーニングだけでなく、腕立て伏せやスクワットのような自重の運動も含まれます。

高齢者向けには、週15メッツ・時以上(1日40分以上)の身体活動に加えて、筋力・バランス・柔軟性など多要素な運動を週3日以上、そのなかに筋トレを週2〜3日、という形になっています。

ここが大事なところです。このガイドが筋トレを推奨している理由として挙げられているのは、生活機能の維持・向上と、疾患の発症予防・死亡リスクの軽減です。「認知機能のため」とは書かれていません。しかも推奨の中身は「週2〜3日」という頻度にとどまり、どんな種目をどれだけ、といった具体的な処方は「今後の科学的知見の蓄積が必要」とされています。国の推奨は、この記事で見てきた研究の不確かさを、そのまま反映しています。

日本の実態と、目標

2024年から始まった「健康日本21(第三次)」は、2035年度までの国民健康づくり運動です。ここでは運動習慣者の割合を全体で40%にする目標が掲げられています(20〜64歳は男女各30%、65歳以上は男女各50%)。運動習慣者の定義は「週2日以上・1回30分以上・1年以上継続」の3つをすべて満たす人です。

2025年12月に公表された令和6年国民健康・栄養調査によれば、運動習慣のある人の割合は34.6%(年齢調整値31.3%)で、男性38.5%、女性31.5%でした。男女とも30〜40歳代でとくに低くなっています。仕事と子育てがいちばん重なる世代が、いちばん動けていないという構図です。

認知症施策の側から見ると

2024年12月3日、認知症基本法にもとづく「認知症施策推進基本計画」が初めて閣議決定されました。2022年時点で認知症の高齢者が約443万人、軽度認知障害(MCI)が約559万人と推計され、合計すると1,000万人を超えます。高齢者のおよそ3.6人に1人という計算です。2040年にはこれが約1,200万人になると見込まれています。

この計画は「新しい認知症観」を掲げ、予防だけでなく、認知症になってからの暮らしを支えることに重心を置いています。運動が認知症を確実に防ぐ、という書き方はされていません。予防が空振りしたときに本人と家族が責められない社会をつくる——という方向に、国の姿勢は移ってきています。

当院の視点
在宅で緩和ケア・難病・認知症の方を診ている立場から、この話をどう扱っているか。
1
「乳酸が出るまで追い込む」は、在宅の現場では前提が違います。 訪問で会う方にとっては、椅子からの立ち上がりを10回繰り返すだけで、息が上がり、脚が震えます。研究で使われている高強度の運動と、その方にとっての高強度は、同じ言葉でも中身がまったく違います。「乳酸を出すために強度を上げましょう」ではなく、その人が安全に続けられる負荷を見つけることのほうが、はるかに実用的です。
2
運動の目的を「頭のため」に置き換えないほうがいい、と考えています。 筋トレの効果として確かなのは、転びにくくなること、立ち座りが楽になること、トイレに自分で行けること。この3つは、脳への効果よりずっと確実で、生活に直結します。認知機能への効果は「あればうれしいおまけ」として扱うくらいがちょうどよく、そう説明したほうが、実は続きます。
3
「運動すれば認知症を防げる」という言い方は、なるべく避けています。 防げなかったときに、本人と家族が「あのとき運動していれば」と自分を責めることになるからです。認知症の発症には、努力ではどうにもならない要素がたくさんあります。当院では「認知症になっても暮らしが続けられるように、いま動ける体を保っておく」という言い方をしています。国の基本計画が「新しい認知症観」として示している方向とも、ここは重なります。
4
始める前に確認したほうがいい持病があります。 息を止めて力むタイプの筋トレは、その瞬間に血圧を大きく上げます。コントロールできていない高血圧、重い大動脈弁狭窄症、心不全、増殖性の糖尿病網膜症、最近の心臓の手術後などでは注意が必要です。抗凝固薬を飲んでいる方は、転倒や打撲そのものがリスクになります。持病がある方は、種目や負荷を決める前に一度、主治医に相談してください。「やめておきましょう」ではなく「この形なら大丈夫」という答えが返ってくることのほうが、実際には多いです。

SECTION 12
場面別・どう考えればいいか

場面どう考えるか具体的にどうするか
集中したい仕事の前に運動したい効果は小さく、短い。ピークは終了11〜20分後軽〜中強度で20分ほど。終えてから15分ほど置いて机に向かう
追い込むほど頭に効く?強度は効果の大きさを左右していない続けられる強度でよい。追い込みは筋肉のためであって、頭のためではない
筋トレと有酸素、どちらが頭にいい?直接比べた解析では差がついていない好きなほう、続くほうを選ぶ。国のガイドは両方をすすめている
認知症が心配で運動を始めたい「防げる」という証拠は確立していない転倒予防と生活機能を目的に置く。脳への効果はおまけと考える
高齢の親にすすめたい弱っている人ほど効きやすい可能性がある週2〜3日。椅子からの立ち上がりや自重の運動から始める
乳酸のサプリメントを飲めば?人での有効性は示されていない。乳酸化は良し悪し両方に働くすすめられない。「運動をする」という入り口のほうを取る
筋肉痛が出ないと効いていない?筋肉痛と乳酸は関係がない。時間も合わない筋肉痛の有無で効果を判断しない。翌日に残らない量から始める
採血で乳酸が高いと言われた運動でできる乳酸とは、置かれている文脈が違う自己判断で運動量を変えず、まず主治医に理由を確認する
血圧が高い・心臓に持病がある息を止めていきむと、その瞬間に血圧が跳ね上がる事前に主治医へ。息を止めない、会話ができる程度の負荷にする
抗凝固薬を飲んでいる転倒・打撲そのものがリスクになる支えのある場所で。バランスを崩しやすい種目は手すりの近くで
30〜40代で時間がない運動習慣がいちばん少ないのがこの世代週2〜3日、1回20分から。通勤や家事に足す形で組み込む
すでに介護が必要な状態「筋トレ」という形にこだわらなくてよい座ったままの足踏み、立ち上がり、家事動作。訪問リハビリで組み立てられる

※持病のある方の運動は、内容によって注意点が変わります。この表は一般的な考え方の整理で、個別の指示ではありません。

SECTION 13
よくある質問

Q1筋肉が灼けるような感覚が出るまでやったほうが、脳には効きますか?

その根拠は、いまのところ人間のデータにはありません。30本のメタ解析を統合した2025年の解析では、運動の強度も種類も時間も、認知機能の伸びを左右していませんでした。灼ける感覚は乳酸そのものではなく、水素イオンなど別の要因によるものです。「きつくした分だけ脳に効く」という関係は、確認されていないと考えてください。

Q2サプリメントで乳酸を増やせば、同じ効果が得られますか?

すすめられません。乳酸を直接点滴した2025年の試験では、BDNFの前駆体は増えたものの、実際にはたらく成熟型は動きませんでした。また、脳の中の乳酸化は、起きる場所によっては炎症の悪循環をつくる側にも働きます。「乳酸が増えれば脳に良い」と単純に読めない以上、乳酸だけを外から入れる方法を今の段階ですすめる理由はありません。

Q3朝と夜、どちらの筋トレが頭に効きますか?

頭への効果という点で、時間帯を比べた質の高いデータは十分ではありません。効果が出るのが終了後11〜20分の短い窓なので、「その後に頭を使う予定がある時間帯」に置くのが理屈には合います。ただし就寝直前の激しい運動は寝つきを悪くすることがあるので、そこは避けたほうがよいでしょう。いちばん確実なのは、続けられる時間帯を選ぶことです。

Q4血液中のBDNFを測れば、脳に効いているかわかりますか?

わかりません。2025年の研究では、運動中に脳から成熟型BDNFが出ていく様子は捉えられず、運動後に血液中で増えるBDNFは骨格筋と血小板から来ている可能性が高いと結論されています。血液のBDNFは、いまのところ「脳がどうなっているか」の代わりにはなりません。健診の追加項目として測る意味も、現時点ではありません。

Q5認知症の家族に、筋トレをさせたほうがいいですか?

「認知症を良くするため」という目的で無理にさせることはすすめません。ただ、体を動かすこと自体には、転倒予防、便通、睡眠、気分といった確かな利点があります。デイサービスの体操、散歩、家事の一部を一緒にやる、といった形で十分です。本人が嫌がることを続けさせると、介護する側の負担も、本人との関係も悪くなります。訪問リハビリを使えば、その方の状態に合わせた形を一緒に考えられます。

Q6ウォーキングだけでは意味がないのでしょうか?

そんなことはありません。国のガイドでも、歩行以上の身体活動を1日60分以上(およそ8,000歩以上)が推奨の柱になっています。そのうえで、筋トレを週2〜3日足すとさらに良い、という構成です。認知機能に関しても、筋トレと有酸素運動を直接比べた解析で差はついていません。歩くことがすでに習慣になっているなら、そこに自重のスクワットを数セット足すだけで、推奨の形にかなり近づきます。

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SECTION 14
参考文献

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