電極の実験の偶然が、精巣がんを「治る病気」に変えた
がんの薬を探していたわけではありませんでした。細菌に電気を流す実験で、白金の電極から溶け出した物質が、細菌の分裂を止めていたのです。 そこから生まれたシスプラチンは、若い男性の精巣がんを「9割が治る病気」に変え、肺・食道・頭頸部・膀胱・子宮頸がんの土台になりました。吐き気と腎臓の話も、対策ごと書きます。
この回の結論
- シスプラチンは、1965年に細菌へ電気を流す実験の偶然から生まれた白金の薬です。1978年に欧米で、1983年に日本で承認されました。
- 転移した精巣がんの8割以上を「病気のない状態」にし、肺・食道・頭頸部・膀胱・子宮頸がんの土台になりました。
- 副作用は吐き気(ほぼ全員)、腎臓、聴力、しびれ。「水を入れてから使う」工夫と吐き気止めの進歩で、外来でも受けられる薬になりました。1回の薬代は約9,000円です。
この薬のプロフィール
| 一般名(商品名) | シスプラチン(ランダ注、ブリプラチン注、シスプラチン点滴静注「マルコ」など。後発品あり) |
|---|---|
| 薬の家族 | 殺細胞薬(白金製剤) |
| 主に使うがん | 精巣がん(BEP)、肺がん、食道がん、頭頸部がん、子宮頸がん(放射線と一緒に)、膀胱・尿路上皮がん、胃がん、卵巣がん、骨肉腫、胆道がん、小児がん |
| 使い方 | 点滴。3〜4週間ごとが基本。前後に1〜2リットルの輸液を入れて腎臓を守る(短時間で行う方法もある)。吐き気止めを3〜4種類組み合わせる |
| 日本での承認 | 1983年9月 |
| 薬価の目安 | ランダ注50mg 2,991円、10mg 921円。1回およそ128mgで約9,000円(薬価基準、令和8年8月13日適用) |
SECTION 01 生まれた日:細菌が分裂をやめた
1965年、米国ミシガン州立大学の生物物理学者ローゼンバーグは、細菌の増え方に電気がどう影響するかを調べていました。 大腸菌に電気を流すと、菌は分裂をやめ、通常の300倍もの長さに伸びました。原因を探すと、電気ではなく、白金の電極から溶け出した物質でした。
分裂を止めるなら、がん細胞の分裂も止まるかもしれない。白金の化合物をマウスのがんで試し、いちばん効いたのがシスプラチンでした。 ただ、腎臓を傷める毒性が強く、臨床では「点滴の前後に大量の水分を入れる」工夫が編み出されて、ようやく薬になりました。
- 1965年ローゼンバーグらが、白金電極から溶け出した物質が大腸菌の分裂を止めることを報告した。
- 1969年白金化合物がマウスのがんを抑えると報告。米国国立がん研究所の指導で臨床研究が始まる。
- 1977年インディアナ大学のアインホーンらが、転移した精巣がん50人にシスプラチンを含む3剤を使い、74%でがんが消えたと報告。
- 1978年大量の輸液と利尿薬で腎臓の毒性を減らせることが分かり、カナダ・米国・イタリアで承認。
- 1983年日本で承認(精巣・膀胱・腎盂尿管・前立腺・卵巣がん)。1986年に頭頸部がんと肺がん、1988年に食道がんと子宮頸がん、1990年に胃がんが加わる。
- 2010年代〜吐き気止めが3〜4種類の組み合わせに進化し、腎臓を守る輸液も短時間の方法が整って、外来で受けられる治療になった。
SECTION 02 どうやって効くのか:白金の腕で設計図をつかむ
体に入ったシスプラチンは、腕についていた塩素が外れて水と入れ替わり、設計図の文字(グアニン)をつかむ形になります。 隣り合う2文字をつかむと、設計図がねじれ、コピーの機械が通れなくなります。細胞は修理を試み、直せなければ死にます。
同じ白金は、腎臓の細い管の細胞にも、内耳の音を感じる細胞にも、神経の先端にもたまります。だから腎臓、耳、しびれの副作用が出るのです。 薬を薄めて早く流すために、点滴の前後に水分を入れます。
- 水を入れてから使う添付文書では、点滴の前と後にそれぞれ1〜2リットルの輸液を4時間以上かけて入れます。近年は腎臓の学会の指針に沿って、より少なく短い方法も行われています。
- 吐き気止めを組み合わせるシスプラチンは吐き気を起こす力が最も強い薬に分類され、日本癌治療学会の指針では複数の吐き気止めを組み合わせて予防します。2017年からはオランザピンも保険で使えるようになりました。
- 腎臓の働きで量を決める腎臓の数値が悪い人、高齢の人では、弟のカルボプラチンに置き換えることがあります。効き目と負担のバランスで選びます。
SECTION 03 なぜこんなに使われるのか:精巣がんを「治る病気」に
1977年、インディアナ大学のアインホーンとドナヒューは、転移した精巣がんの若い男性50人に、シスプラチン・ビンブラスチン・ブレオマイシンの3剤を使いました。 74%でがんが消え、手術を組み合わせると85%が病気のない状態になりました。それまで転移すればほぼ助からなかった病気です(Einhorn ら、Ann Intern Med 1977)。
1987年には、ビンブラスチンをエトポシドに替えたBEPが、261人の比較試験でしびれや筋肉痛を減らしながら、病気のない状態を83%に上げました(Williams ら、NEJM 1987)。 BEPはいまも、転移した精巣がんの標準治療です。
| 使い方 | 主ながん | ねらい |
|---|---|---|
| BEP | 精巣がん・胚細胞腫瘍 | 転移があっても治すことをめざす |
| シスプラチン+放射線 | 子宮頸がん、頭頸部がん | 放射線の効きを強め、治すことをめざす |
| シスプラチン+5-FU など | 食道がん、頭頸部がん、胃がん | 治す/進行を抑える |
| シスプラチンを含む2剤 | 肺がん(手術のあと、または進行期) | 再発を減らす/進行を抑える |
| GC、M-VAC | 膀胱がん・尿路上皮がん | 進行を抑える(第46回で新しい薬へ) |
表1 シスプラチンの主な使われ方(ランダ注の添付文書と学会ガイドラインによる)。
添付文書の対象は、精巣・膀胱・腎盂尿管・前立腺・卵巣・頭頸部・肺・食道・子宮頸・胃がん、骨肉腫、胚細胞腫瘍、中皮腫、胆道がん、尿路上皮がんなど多岐にわたり、 がんごとに標準の投与法(A法〜J法)が定められています。腎臓を守る輸液の方法も添付文書に書かれ、短時間の方法は学会の指針に沿って行うとされています。
SECTION 04 副作用と、家でできること:吐き気、腎臓、耳
添付文書の承認時の集計では、吐き気・嘔吐が85%、食欲不振が75%、だるさが42%の人に出ました。白血球減少は40%、脱毛は24%、聴力の低下は3%です。 数字は大きいですが、いまは吐き気止めの進歩で、様子が変わっています。
吐き気は点滴の当日だけでなく、2〜5日目にも来ます(遅発性)。吐き気止めは「気持ち悪くなってから」ではなく、 予定どおり予防で飲むのが原則です(がん情報サービス)。腎臓を守るのは水分です。点滴のあと数日は、こまめに水分をとり、尿が出ているかを見ます。
聴力は高い音から落ち、耳鳴りが先に出ることがあります。回数を重ねるほど残りやすいので、早めに伝えて量を調整します。 しびれも蓄積します。白血球は1〜2週間後に底になり、発熱は待たずに連絡します。
-
こんなときは吐き気で半日以上水分がとれない、尿が明らかに減ったこうするその日のうちに病院へ連絡する。脱水は腎臓の傷に直結する。点滴で楽になる
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こんなときは点滴の1〜2週間後に37.5度以上の熱が出たこうする夜間・休日でも、その日のうちに病院へ電話する
-
こんなときは耳鳴りがする、テレビの音を大きくするようになった、手足がしびれるこうする次の受診で必ず伝える。次回の量を調整して、残らないようにする
腎臓の働きが落ちている人、聴力に問題のある人は慎重に使い、量を減らすかカルボプラチンに替えることがあります。 腎臓に負担のある薬(一部の抗菌薬、利尿薬、痛み止めなど)を家で足すときは、必ずお薬手帳を見せてください。妊娠中は使えません。
点滴の2〜3日目の家で、私たちが見るのは、コップと吐き気止めのシートです。「気持ち悪くないから飲んでいない」という方に、予防で飲む理由を話します。 台所にコップを置いて、飲んだ回数を「正」の字で数えてもらうこともあります。
ご高齢の方では、腎臓の数値と聴力を確かめ、主治医が弟のカルボプラチンを選ぶ相談に立ち会うことがあります。 「テレビの音が大きくなった」と家族が気づくことが、聴力を守る最初の一歩です。
SECTION 05 薬価と自己負担:1回約9,000円
ランダ注は50mgが2,991円、10mgが921円です(薬価基準、令和8年8月13日適用)。体表面積1平方メートルあたり80mgなら1回およそ128mgで、薬代は約9,000円。 3割負担で約2,700円です。40年以上前の薬で、値段は安く抑えられています。
実際の会計では、腎臓を守る輸液、3〜4種類の吐き気止め、点滴の管理料が加わり、この薬そのものより高くなることが珍しくありません。 それでも外来で受ければ、70歳以上で年収約370万円未満なら、高額療養費で月22,000円が上限です(第1回の表1)。
「水を入れてから使う薬」だと、覚えてほしい。
シスプラチンは、効き目が見つかってから薬になるまでに10年以上かかりました。腎臓を守る方法が見つかるまで、使えなかったからです。 その工夫は、いまも点滴の前後の輸液として続いていて、家では「水を飲む」「尿を見る」という形で、ご家族に引き継がれます。
吐き気も同じです。40年前は「吐くのが当たり前」の薬でしたが、いまは先回りの吐き気止めで、外来から家に帰れる治療になりました。 台所のコップと、吐き気止めのシート。それがこの薬の、家での主役です。
「この薬、家ではどう気をつければいいですか」と聞ける主治医を、持ってください。
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Q&A よくある質問
この回のチェックリスト(第7回ぶん)
- 吐き気止めを「症状がなくても予定どおり飲む」と本人と共有した。
- 点滴のあと数日は水分をこまめにとり、飲んだ回数を記録している。
- 尿が減った・水分がとれないときの連絡先を貼った。
- 耳鳴り、テレビの音量、手足のしびれに気づいたら、次の受診で伝えると決めた。
- 家で薬を足すときは、腎臓への負担を薬局で確かめると決めた。
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薬のこと・お金のことの相談先
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- 治療を受けている病院の外来・化学療法室副作用が出たとき、まず連絡する先です。夜間や休日の連絡先は、治療の説明書や「治療日誌」に書かれていることが多いので、目につく場所に貼っておいてください。
- がん相談支援センター治療や薬のこと、お金や仕事のことを無料で相談できます。県内すべてのがん拠点病院にあり、その病院にかかっていなくても利用できます/福岡県「福岡県内のがん拠点病院がん相談支援センター」
- がん情報サービス(国立がん研究センター)がんの種類ごとの標準治療と、使われる薬の情報を、公的機関がまとめています/ganjoho.jp
- くすりのしおり(くすりの適正使用協議会)処方された薬の飲み方・注意・副作用を、薬の名前で調べられる患者向けの情報です/rad-ar.or.jp/siori
- 高額療養費制度の窓口(加入している健康保険)1か月の自己負担に上限を設ける制度です。会社の健康保険組合・協会けんぽ・市区町村の国民健康保険・後期高齢者医療広域連合など、保険証(資格確認書)に書かれた保険者に申請します。マイナ保険証を使えば、窓口での支払いが最初から上限額までになります/厚生労働省「高額療養費制度を利用される皆さまへ」
- かかりつけ薬局の薬剤師飲み薬の抗がん剤と、ほかの薬・サプリメント・食べ物との飲み合わせは、薬局で確かめられます。お薬手帳を1冊にまとめておくと早いです。
REFERENCE 参考資料
- 日本化薬「ランダ注10mg/20mL・50mg/100mL 添付文書」2026年4月改訂(第4版)(https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/ResultDataSetPDF/530191_4291401A1097_1_16)
- 日本化薬「ランダ注 医薬品インタビューフォーム」(開発の経緯:1965年ローゼンバーグの発見、1978年欧米承認、1983年9月21日日本承認)(https://www.info.pmda.go.jp/go/interview/1/530191_4291401A1097_1_010_1F.pdf)
- 日医工ファーマ「シスプラチン点滴静注10mg・25mg・50mg「マルコ」添付文書」2025年9月改訂(副作用の頻度、輸液の方法)(https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/ResultDataSetPDF/580825_4291401A1119_3_03)
- 厚生労働省「薬価基準収載品目リスト及び後発医薬品に関する情報について(令和8年8月13日適用)」(https://www.mhlw.go.jp/topics/2026/04/tp20260401-01.html)
- Rosenberg B, VanCamp L, Krigas T. Inhibition of cell division in Escherichia coli by electrolysis products from a platinum electrode. Nature. 1965;205:698-699(https://doi.org/10.1038/205698a0)/Rosenberg B, et al. Platinum compounds: a new class of potent antitumour agents. Nature. 1969;222(5191):385-386(https://doi.org/10.1038/222385a0)
- Einhorn LH, Donohue J. Cis-diamminedichloroplatinum, vinblastine, and bleomycin combination chemotherapy in disseminated testicular cancer. Ann Intern Med. 1977;87(3):293-298(https://doi.org/10.7326/0003-4819-87-3-293)
- Williams SD, et al. Treatment of disseminated germ-cell tumors with cisplatin, bleomycin, and either vinblastine or etoposide. N Engl J Med. 1987;316(23):1435-1440(https://doi.org/10.1056/NEJM198706043162302)
- 日本癌治療学会「制吐薬適正使用ガイドライン 2023年10月改訂 第3版」(http://www.jsco-cpg.jp/antiemetic-therapy/)
- 国立がん研究センター がん情報サービス「吐き気・嘔吐」2024年3月14日更新(https://ganjoho.jp/public/support/condition/nausea/index.html)、「しびれ」2025年9月17日更新(https://ganjoho.jp/public/support/condition/peripheral_neuropathy/index.html)
- 国立がん研究センター がん情報サービス「胚細胞腫瘍(成人)」(https://ganjoho.jp/public/cancer/germ_cell_tumor/index.html)

